痛みを理解させるのは不可能社会通念ではなく自分に預ける

昨日は頭が痛くて一日中横になっていました。

片頭痛持ちなので、「あ~またかぁ」という感じではありましたが、最近は薬を飲んでも効かないので意識を無くすしかありません(笑)。
痛み止めを飲んでその眠気を借りて夢の中へ。いくらでも眠れるのでほんとに一日中寝ていました。

末っ子「勝手に晩御飯食べるから。」
次男「犬の散歩行ってくるわ。洗濯物、入れといたから。」
そんないたわりにも感動しないぐらい頭痛が酷かった・・。

一昨日、楽し過ぎてグラレコに夢中になったからその反動かな。無理はできない年になったかもしれません(笑)。

■見えないからいい訳が必要

そんな悶々とした中でつらつらと考えていたことがありました。

「私の頭痛のレベルはどの程度なのか。他の人なら動くのか?友達は薬に頼るのは嫌いと言っていたから私は痛みに弱い脆弱(ぜいじゃく)者なのか?」

    ↓↓

「いや、でも、これでPCに向かってもろくなものは出来ないな。頭が回らないし気分も最悪。とても人が楽しいと思えるものは作れない。」

    ↓↓

「待てよ。これって根性論や忍耐論にいい訳してる状態だよね。生まれつき根性論を持ってるはずも無いし。その後付けの根性論や忍耐論は誰が言ってたんだろ?」

    ↓↓

「と、言うかなぜ私はいい訳してるんだろう?なぜいい訳をしなければいけないんだろう?」

こんな事を考えていました。
頭痛は勿論、体調の不良や心の痛みと言うものは、人は勿論自分自身にも見えるものではありません。熱があったり嘔吐したり、血がドバドバ出たり・・。そんな誰から見ても「もう寝てなよ」と言ってもらえる症状があれば、安心して休む事が出来ますが、そんな症状が表面化するものばかりではありません。逆に表面化するほどなら、すぐに病院に行くべき状態です。

見えないからこそ「いい訳」が必要になるし、その「いい訳」は自分に対しても人に対しても必要になってくるんですね。

■強さ=成功、正義、幸福という社会通念

お腹が痛い、頭が痛い、だるい、気分が悪い、気が乗らない、やる気が出ない。
そんな見えない痛みや心の沈み。そこに無理をさせるのは根性論のような「強さ=成功、正義、幸福」という社会通念があるように思います。

痛くても我慢する。辛くても耐える。嫌でもやる。そこを乗り越えてこそ立派な人間になれるんだという理論がまかり通っていますね。勿論、私も一生懸命いい訳をしていたのでその社会通念が頭に住み着いているようです。厄介ですね。

そんな見えない痛みや辛さ、心の浮き沈み。
実は人に理解してもらう事は不可能ですね。いくら言葉を駆使しても痛みを相手に100%伝える事は出来ませんし、落ち込んだ気持ちを隅から隅まで共有することはまず無理でしょう。

お医者さんだって、痛い事は分かってくれても一緒に感じる事はできません。カウンセラーさんだって寄り添ってくれる事は出来ても、同じように心が沈むはずもありません。
お医者さんには自分の痛みしか感じる事は出来ませんし、カウンセラーさんだって自分の悩みにしか落ち込む事は出来ないのですから。

■うわべの優しかしかもらえない

理解してもらおうと思う事に無理がある。
「頭がどれぐらい痛いから今は仕事ができない」とか「こんなにやる気が出ないからそれはしたくない」と言っても伝わらないのは当然のように思います。

仮に「大丈夫?ゆっくり休んでなよ。」と言ってもらったとしても、それは確実にその人の優しさであって理解ではありません。うわべの言葉にしかならなくて当然なんですね。その人にはその痛みは分からない。過去の体験から引っ張り出してきて想像するしかありませんから。

だから優しい言葉をもらってもそれはうわべの言葉だと分かってるので「本当は頑張ればできると思ってるんでしょ・・。」なんてひねくれて取ってしまうのでしょう。

自分の痛みは理解してもらえない。
それは当たり前の事。

そこまで考えて、結論が見つかりました。

■人に理解してもらうのは不可能

理解してもらおうというのがそもそも無理だという事は、結局自分に素直にいるしかありませんね。

体に痛みを示すレベルゲージが付いているわけでも無く、心にストレスを示す信号ランプがある訳でも無い。
また、付いていたとしても、それを全てクリアに表示できるとも思いません。心と体はリンクしているので、悩みが解消されたとたんお腹の痛みが無くなる子どものように、目で確認できるような単純なものでは無いんですよね。

ちなみに多くのクリエイターも心を表現するために試行錯誤しています。言葉や絵、音楽やパフォーマンス。様々な表現方法で心の全てを表現しようと頭をひねります。
伝えるって実はとても難しい事なんですよね。

人に理解してもらう事は不可能。
もらえるのはうわべの優しさが精一杯。
ならば、自分は自分に素直にいるしかありません。

痛いから休む。辛いから行かない。
それは自分で決めるしかないんですね。誰かに許してもらおうとか、誰かに共感してもらおうとか思うより先に、自分が許すかどうかが大事です。

そして、そこに社会通念があってはいけません。

■暗黙の社会通念

「こうしなければ幸せになれない」
「成功者はこう言っている」
「社会人とはこうあるべき」
「常識とはこういうもの」

そんなどこにも書き記されていない暗黙の社会通念。
それが頭にあると、昨日の私のように、子どもは労わってくれているのに、「それでも何かできるんじゃないか。」「座って手を動かす仕事ならできるんじゃないか。」なんて時間を無駄にしてしまいます。休む時は休む!ができなくなってしまうんですね。

そもそも、「こうでなければ!」という人の多くは「自分を信じる事」が出来ていないかもしれません。
誰かの成功体験。誰かの論理。誰かの教え。そんなものに縛られてしまって「自分そのものに全てを預けてみる解放感」を知らないでいるのではないでしょうか。

不自由

■私は絶対無二の存在!

私もたくさんたくさん迷走しました。
色んなものに縛られながらそれでも自由で生きたいともがいていました。それは今もまだ続いているように思います。

ただ、「自分に全てを預ける自由」。
誰かの真似をするのではなく、誰かの言葉を妄信するのではなく、「自分の全てで決める自由」に気が付けたように思います。

「頭が痛いから寝る!」「心が沈んでるから約束をキャンセルする」「だるいから休む」
それを自分勝手なわがままと取るか、しょうがないと取るかは自分に預ければいいですね。人と比較する必要はありません。

「あの人ならこうするんだろうな・・。私は本当にダメだな・・。」
なんて思ってしまっては本末転倒ですね、私のように(笑)。休みが休みになりません。

「あの人」とは親も違えばDNAも違う。そもそも「あの人」より自分が劣っているというスタートラインからして間違っている。
人の価値なんてお金でも肩書でも実績でも無い。そんな事で決まると思ってしまったら子どもはどうなるのか!?そう考えるから子どもを未熟だと見下してしまう。

そんな視点で考えて行くと、自分を愛おしく感じるようになってきませんか?
「私も一人の人間です!脳みそも心もちゃんと機能しています!」って(笑)。
逆に、私の体験は世界で唯一の絶対無二!上も下も無く希少価値しかないレアもんです!という話です。

■70億分の1

ついつい私達は社会通念に従って自分を当てはめようとしてしまいます。
確かにモラルや道徳的な行動が必要とされる場合もあります。私達は社会の中で生きていますから。

ただ、自分が痛みをどこまで我慢するか、どこまで心に蓋をするかを社会通念に左右される必要はありません。
私が昨日一日中寝ていたことを誰も知らないように、個人の行動が社会にダメージを与えるようなことはほぼありません。
まぁ、首相が頭痛で公務を休んだらニュースにはなるでしょうが(笑)。

70億分の1。
7000000000分の1。
私達はそんな存在です。

「あ~今日休んだからみんなに迷惑かけちゃう~。」
と落ち込むよりも、70億分の1として残りの69億9999万9999人に何ができるかを考えた方が楽しそうです。
そうすれば、できない事ではなくできる事に視点が移ります。その方が命を活かせる気がします。

■健康が一番!

とまぁ、こんな事を頭痛にあえぎながら考えました。
病人の正しい過ごし方では無いですね(笑)。

ただ、お陰で今日は頭痛も収まり朝からこの記事も書けています。気分爽快です(笑)。
自分なりの理論を組み立てる時間になったのでしょうね。

自分が自分の行動に「納得する」のはとても大切です。
いい訳ではなく色んな方向から見つめてみる。そこで軌道修正も納得もできるんですね。
今回の頭痛はそんな気付きをくれました。

でも、やっぱり元気が一番!
みなさんも健康に気を付けて元気にお過ごしくださいね。

という事で今日はこの辺で。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
また明日ね。

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