肩書に弱い日本人~不登校の子に「とりあえず」は禁句

人間は頭の中で常に会話しているといいますが、まさに「思考」は生モノでどんどん流れていってしまいます。

今日はそんな流れる思考を深めた結果、世紀の大発見をしたような気持になったので書いてみようと思います(笑)。
不登校を追求した結果どんどん発展していきました。

自分には無理・・という子どもたち

昨日撮った動画で「その人だからできたんでしょ」「私には無理」という考え方について話してみました(公開はまだですが)。
子どもが不登校の時「俺には無理」「どうせ無理」という言葉を山のように聞いてきました。これは子どもたちだけに限ったことではないと考え、どうして今の社会に生きる人たちはこんなに自信を無くしてしまったのかと深堀してみました。

私なりの結論は「他者の人生に近づけよう、寄せようとしているから」という事になりました。
人生の成功者、賢者、有識者、哲学者や著名人。もっと身近に視点を移せば、楽しそうに生きている人や持っていないものを持っている人。そんな人たちを憧れたりうらやんだりすることで、そっちに行こうと努力してしまう事が原因だと思いました。

努力はしたけれど、その差の大きさに驚愕して諦めてしまったり、自信を無くしたり。はたまた、本を読んだり学校へ行ったり資格を取ったりして、そっちの世界に行こうとはしても心は追いつかない。その成功体験もない。先生や本が無いと本当の自分が見えない。つまりブレブレになっていつまでも悩みから解放されない。

要するに万全の鎧は身に着けたけれど、中身は強化されないままなので軸の無い状態になってしまうのですね。
また、近いうちにその辺を話している動画をあげますのでしばらくお待ちくださいね。

■肩書に弱いと思考が止まる

要するに、他者からの学びを取り込んで「そうなろう!」と、そこで止まってしまうから苦しいんだと気づきました。学んで吸収したら「じゃあ、自分は?」が必要なんですね。

日本人は肩書に弱いと聞いたことがあります。有識者と呼ばれる人たち、専門家。その分野に特化して研究を深め、検証を繰り返した人たちにはかなわないと思っています。なので「実績」にこだわり、何を成し遂げたかだけを重要視してその人を評価します。肩書がある人にはかなわない・・そう思ってしまいます。

確かに敬意を払う、尊敬するという純粋な思いは大切です。でも、それで人の価値は決まったりしない。ずっと専業主婦をしてきた人たちが東大の名誉教授よりも人間的に劣るのか?という話です。

人間は多面的な生き物である。それさえ分かっていれば、肩書に振り回されることはありませんね。どんな立派な仕事をした人でも人間的な欠陥はあるものです。凸凹なのが人間です。

残念ながら、今の日本はまだまだ肩書社会なので肩書のある人、実績のある人がもてはやされます。

だから、そっちの世界に近づけよう、寄せようとしてしまいますし、何かの成果を上げなければ自分は役立たずでダメな奴なんだと思い込んでしまうんですね。これは日本の義務教育の弊害です。オリジナリティは不要で「正解を見つける能力さえあればいい」と洗脳されてしまったが故に、「賢い人の言っていることは正しい」という思考しかできなくなってしまったんです。

正解はどこかにあって、それを見つけて近づく努力をすることが「幸せになるたった一つの道」のように思いこまされてしまっています。

■「とりあえず」はオリジナリティの天敵

でも、実は、そのあとが必要だったんですね。
「じゃあ、自分はどうする?どう考える?」この思考を許されてきませんでした。「とりあえず勉強しろ」「とりあえず働け」「とりあえず結婚しろ」「とりあえず子どもを産め」。こんなとりあえずだらけの社会で、オリジナリティを育てるのはかなり勇気がいります。はっきり言って「異端」になるしかなかったかもしれません。

オリジナリティとはその人そのものです。それに目をつぶって生きなければいけないのですから、そりゃ心が病んでしまっても当然ですよね。

また、TVから始まった情報の伝達は、今やSNSまで加わって時代を大きく進めました。
知らなければ平穏でいられたのに、Twitterやインスタなどで「幸せ」をアピールし、成功例があふれ、人との違いが否が応にも入ってくるようになりました。

不登校の子たちだけではなく、スマホを持つ人たち全てが「誰かと自分の差」を簡単に認識することができるようになってしまったんですね。

■足りないことは一つだけ

昔の子どもは夢を持っていた。
多くの大人はそう感じているでしょう。私も自分の子どものころを思うと本当に能天気だったと思います(笑)。それは比べる対象が少なかったからなんですね。身の程知らずとも思わず、自分の可能性や将来に多くの希望を持つことができた。その時間は幸せでありワクワクしていました。

でも、今の子どもたちは身の程を知る機会があふれています。親の経済力、自分の忍耐力、好奇心や探求心。行動力も創造性も、比べようと思ったらいくらでも比べられます。

でも、それは可哀想な事ではないんですね。何も悲観する話ではありません。

ただ一つ、「自分ならどうする?」という次のステップを知らないだけです。それが足りていなかっただけ。

不登校

■障害をやる気に結び付ける

この「自分ならどうする?」ができれば、多くの障害はやる気を育ててくれます。

お金が無い。時間が無い。勉強はしたくない。学校は面白くない。先生が嫌い。親が嫌い。
人生にはたくさんの障害があって、自分の力ではどうにもならないことがたくさんあります。今までの日本の教育では、その「嫌いな事」「苦手な事」は根性と忍耐で克服して、社会が求める人間になることが正解とされてきました。

また、個人レベルで考えれば「協調性が無い」「社会性が無い」「頑固」「わがまま」「約束が守れない」「本音で話せない」「気が弱い」「気が強い」などなど、数え上げればきりが無いほどの「日本の社会で生きるための障害」があります。

でも、この「嫌いな事」「苦手な事」こそオリジナリティなんですよね。
その嫌なことをしなくて済むようにするには「自分ならどうする?」「どんな方法がある?」「どこまでなら許容できる?」「そもそもどうして嫌なんだろう?」こんな風に、自分独自の答えを探す。そうやって自分の答えを探す癖付けができれば、誰かの人生が正解で、自分には無理・・という結論には至りません。

有識者の話も、成功者の本も、哲学書も、歴史も。
それが正解ではなく、全てを対話の材料にする。「なるほど。そういう考えもあるのか。なら自分はどう考える?」そうやって対話していく。哲学も歴史も学びながら、自分の人生に繋げてみる。
そうすることで、初めて自分の人生が輝きだすのだと思います。

人生は成功する事でも勝つことでもありませんから。

■人間は考える葦である

正解は自分の中にある。
それが例え間違ってても、独りよがりでも、その過程を通っていかなければ「納得した答え」というのは手に入りません。

今の自分の精いっぱいの答え。今の自分ができる目いっぱいの行動。
そこに「納得」することが大切です。「納得」していなければ「納得できるまで」自問自答することです。その答えに誰がなんと言おうと関係ありませんね。自分の答えなんですから。その答えを出すためのアイテムが「学び」であり「先人の言葉」なだけです。

「納得」を積み重ねれば、いつか自分が死ぬときに「納得して満ち足りた気持ち」で旅立つことができるでしょう。

誰かの人生に寄せる生き方ではなく、自分が納得した生き方を積み上げる事こそ「幸せ」なんだと思います。
だからこそ、子ども達には「納得」できるまで対話する癖をつけてあげてください。

親の価値観の押し付けではなく、未熟でも世間知らずでも、その中で「納得する答え」を自ら見つける根気をはぐくんであげてください。そして、親自身も、「納得できる生き方」にモードチェンジしていってください。

人間は考える葦である・・。
考える事こそ喜びであり、成長であり、人間らしさだと思います。
誰かになろうと必死になって考えるより、自分を楽しもうと無我夢中で考える方が「納得」も「満足」も手に入ります。

全ての人間は素晴らしい。そう思います。
自分の人生に光を当てて、今日、今から納得して生きていきましょう。私も「自分」を大切に生きていこうと思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今日はこの辺で。
ではまたね。

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